ポパーという人物

ポパーという人物

略年譜

1902年 ウィーンの西南部オーバー - サンクト - ファイト地区ヒンメルホーフにて七月二八日に生まれる。二人の姉がいた。父はジーモン・ジークムント・カール・ポパー。弁護士で法律事務所を経営し、大きな成功を収めていた。
また、学者肌の人物で、歴史と哲学に深い関心をもち、詩も書く急進的自由主義者でもあった。母は、イエニー。音楽の才能に恵まれていた。
1907年 母親から『ニルスの不思議な冒険』を読んでもらい、大きな影響を受ける。
1912年 二〇歳ほど年上であったアルトゥール・アルントと知り合い、大きな影響を受ける。アルントは社会主義者であると同時に、ボルシェビキの断固たる反対者であった。
また彼は、マッハたちによって始められた科学哲学的な運動「一元論者」に関心をもっていた。
1914年 アルントからの影響で、ポパーにとっての最初の社会主義の本であるエドワード・ベラミの『顧みれば』を読む。第一次世界大戦勃発。
1916年 戦争宣伝の影響を受けてオーストリアが攻撃されたという考えをもったが、まもなく巨大な宣伝装置による欺瞞であることを悟り、戦争について父と議論するとともに、オーストリアとドイツの立場が間違ったものであることを確信する。
1917年 父との議論のなかで言葉の意味を議論することの無意味さを悟る。ポパーは後に、重要なのは言葉の意味とか定義であるとする立場を本質主義と呼び、生涯に渉って闘いをつづける。
またカントの『純粋理性批判』も読み始める。ソクラテス以前の哲学者に関心をもつ。ニュートンに心酔する。
二ヶ月間病気をするが、クラスの授業が少しも進歩していないことを知ってショックを受ける。ロシア一〇月革命。
1918年 中等学校をやめる。ウィーン大学に正規でない学生として入学し、当初、あらゆる講義に顔を出すが、やがて数学、物理学、哲学などを勉学の中心に据える。
第一次世界大戦終了。オーストリア共産党結成。
1919年 二、三ヶ月の間、自らをマルクス主義者と見なす。ヘール通りでの警官隊によるデモ隊への発砲を目撃。マルクス主義の倫理に対し深刻な疑問をもち、やがてそれから離れる。アドラーの個人心理学と出会うとともに、やがてウィーン学団の主要メンバーとなるノイラートを知る。アインシュタインからの影響で、科学的態度とは批判的態度であることを認識する。
家をでて「学生の家」で生活し、道路工事などの労働にも従事する。
グレッケルの学校改革運動が主としてウィーンで開始される。エディントンによるアインシュタインの予測のテストがなされる。
1920年 アドラーの児童相談所で活動をつづける。アルノルト・シェーンベルクの「私的演奏協会」の会員となる。
この年の秋から一九二二年ごろまで音楽家になることを真剣に考えていた。
1921年 学習の心理学や帰納の問題にとりくむ。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』。
1922年 ウィーンの指物師アルバート・ペッシュのところで徒弟奉公(一九二四年一〇月まで)。
大学入学資格(Matura)を取得、ウィーン大学の正規の学生となる。自作のフーガによってウィーン音楽学院の教会声楽部に約一年間、入学する。シュリックがウィーン大学に招聘される。
1924年 翌年にかけて、友人のユリウス・クラフトと認識論や政治哲学について議論する。アドラーのつくった児童相談所で孤児の面倒を見る。
教員養成大学での二次試験に合格する。レーニン没。
1925年 児童相談所である児童が頭蓋を骨折するという事故があり、ポパーにその責任が着せられたが、裁判では父親が弁護をおこない、無罪となる。
ウィーン教育研究所に入所。ビューラーのもとで主として心理学を学ぶ。最初の公表論文「学校および生徒に対する教師の位置」。
ハイゼンベルクの「不確定性原理」。
1926年 カール・ポラニーの紹介によってハインリッヒ・ゴンペルツを知る。ギリシア哲学史や認識論などについてゴンペルツから親しく教えを受ける。
1927年 ウィーンで労働者のデモ隊に警官隊が発砲し、九〇名の死者と一〇〇〇名近い負傷者がでるという七月事件が勃発する。
ポパーは、この事件にオーストリア社会民主党の指導の誤りを見る。
1928年 博士論文「思考心理学の方法と問題」(ウィーン大学)がビューラーとシュリックを試験官として最優秀の成績で合格。
しかし、ポパーはその内容に不満であった。専攻は心理学、副専攻は音楽史だった。
1929年 (下級)中等学校の数学と物理学の教師資格を得る。ウィーン学団綱領発表。ウィーン学団メンバーとの接触。
ウォール街における株式の大暴落、世界恐慌の発生。ホワイトヘッド『過程と実在』。
1930年 中等学校教師(~一九三五)となる。ウィーン教育研究所以来のジョゼフィンヌ・アンネ・ヘニンガー(1906 - 1985)と結婚。ファイグルを知る。
1932年 この年の早いうちに『認識論の二大根本問題』の第一巻を完成。ウィーン学団のメンバーであるカルナップやファイグルと共にチロルへ行く。
一二月になってハインリッヒ・ゴンペルツより『認識論の二大根本問題』の原稿を高く評価した手紙をもらう。
1933年 『認識論の二大根本問題』草稿完成。ドルフュスがクーデターによりオーストリア議会を解散する。ナチスの政権掌握。
1934年 七月プラハでタルスキーと会い、『探求の論理』の校正刷りを見せる。叔父のシフによって『認識論の二大根本問題』から抜粋された『探求の論理』が出版される(九月)。
ハイゼンベルクとの対話。オーストリア社会民主党の指導による労働者の蜂起(二月事件)がおこるが、ドルフュスによって鎮圧される。
マッハ協会が解散させられる。
1935年 年初、タルスキーと再会し、ウィーンのフォルクス公園で真理論について直接教えを受ける。ポパーはタルスキーを哲学における師として深く尊敬する。
『ヒストリシズムの貧困』のもとになる原稿を書き始める。ベッドフォード・カレッジ(ロンドン大学)のスーザン・ステビング教授の招待を受けて秋に渡英。ケンブリッジやオクスフォードで講演や論文報告をおこなう。
1936年 イギリスで、シュレーディンガーと確率論や量子力学について討論する。アリストテレス協会の会合に出席、ロンドン大学のハイエクのゼミで『ヒストリシズムの貧困』のもとになる原稿を発表。七月にコペンハーゲンに行き、ニールス・ボーアと討論。ボーアに圧倒される。スペイン内乱勃発。
1937年 教職を妻とともに辞め、ロンドン経由でニュージーランドに出帆。三月カンタベリー大学に赴任。
1938年 講義のかたわら、確率論の公理化の研究などに取り組む。三月、ヒトラーによるオーストリア占領(合邦)の報に接するとともに『ヒストリシズムの貧困』の執筆を決意する。続いて、『開かれた社会とその敵』の執筆も開始。
この時期、ポパーは全体主義と闘う決意のある政治家はウィンストン・チャーチルしかいないと考えていた。
1940年 「弁証法とはなにか」(『推測と反駁』第一五章)。
1940年 一〇月、『開かれた社会とその敵』の第一部の原稿が完成する。
1943年 三月、『開かれた社会とその敵』の第二部の原稿が完成する。原稿をアメリカの友人に送るが、出版社を見つけられなかった。
「ヒストリシズムの貧困」の原稿を『マインド』に送るが、掲載を断られる。
1944年 ハイエクやゴンブリッチの助力で『開かれた社会とその敵』の出版社(ラウトリッジ社)を見つける。「ヒストリシズムの貧困」を『エコノミカ』(一九四四年~一九四五年)に三回に分けて発表。
エックルズ、ニュージーランドのオタゴ大学に赴任。ポパーがオタゴ大学で講義をしたときに両者は知り合う。ハイエク『隷従への道』。
1945年 ロンドンが爆撃を受けているさなかに『開かれた社会とその敵』(小河原・内田訳、未來社、一九八〇年)が出版される。
一一月ニュージーランドのオークランドから出航、航海中はノイマンとモルゲンシュタインによるゲーム理論の本を読む。
1946年 一月初め、イギリス着、ロンドン大学に赴任。一一月二六日、ケンブリッジのキングス・カレッジのR・B・ブレイスウェイトの部屋で「哲学的問題は存在するか」という題で報告し、ウィトゲンシュタインと論争。F・ヴァイスマンと一緒にオランダに旅行する。
この年から四八年にかけて論理学関係の論文を次々と発表する。「なぜ論理と算術の計算体系は実在に適用可能か」(『推測と反駁』第九章)。
チャーチル、アメリカのフルトンで演説。インドシナ戦争勃発。
1947年 「ユートピアと暴力」(『推測と反駁』第一八章)。
1948年 講演「合理的な伝統論に向けて」(『推測と反駁』第四章)。翌年にかけてアルトゥル・マルヒと討論をつづける。G・ライル『こころの概念』。
ソ連、ベルリン封鎖を始める。
1949年 ロンドン大学の論理学および科学方法論の教授(~一九六九年)となる。ドイツ民主共和国の成立。
1950年 二月、クィーン・メアリー号でニューヨーク着(最初のアメリカ訪問)。「自然と社会の研究」という題目で、ウィリアム・ジェームズ講演をハーバード大学で行う。
またプリンストン大学のセミナーでアインシュタインやボーアと討論する。アインシュタインとは非決定論について三度にわたって論じ合う。
その議論内容は『オープン・ユニヴァース』の第二六節に詳しい。ゲーデルとも再会し、シルプ編の『アインシュタイン』の巻への彼の寄稿論文について論じ合う。
マッカーシー上院議員の赤狩り演説。帰国後バッキンガムシャーのペンに引っ越す。
1951年 主としてこの年から五六年にかけて、『「探求の論理」へのあとがき』を執筆する。ポパーは長く『探求の論理』の訂正や拡張をおこなっており、それらのいくつかは五九年に『科学的発見の論理』が出版されたときに、それに収録された。
『「探求の論理」へのあとがき』そのものは、『探求の論理』の訂正や拡張から生まれ、独立の書物にまで育ったものである。ウィトゲンシュタイン没。
1952年 四月二八日、ウィトゲンシュタインにたいする批判を含んだ「哲学的諸問題の性格と科学におけるその根源」(『推測と反駁』第二章)を発表。
「ヒューマニズムと理性」(『推測と反駁』第二〇章)。
1953年 「言語と身心問題 ― 相互作用主義の再説」(『推測と反駁』第一二章)。「マッハとアインシュタインの先駆者バークリー」(『推測と反駁』第六章)。
夏に英国文化振興会による講演「科学 ― 推測と反駁」(『推測と反駁』第一章)をおこなう。アガシ、ポパーに師事する。
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』。
1954年 カント没後一五〇周年記念の放送番組「カントの『純粋理性批判』と宇宙論」(『推測と反駁』第七章)。
「日常言語における自己言及と意味」(『推測と反駁』第一四章)。モン・ペルラン協会での講演「世論と自由主義的原理」(『推測と反駁』第一七章)。
1955年 「科学と形而上学との境界設定」(『推測と反駁』第一一章)を『ルドルフ・カルナップの哲学』(一九六四年刊)に寄稿する。
ラッセル・アインシュタイン宣言。アインシュタイン没。
1956年 「時間の矢」。渡米、スタンフォード、高等行動科学研究所にアガシとともに滞在。この年から翌年にかけて『「探求の論理」へのあとがき』のゲラ刷りが出てくる。だが、ポパーはまもなく両眼の手術を受けることになり、ゲラ刷りの校正は中断する。
手術後、ポパーは六一年までゲラ刷りにいくつか節を追加したり、多くの訂正をおこなう。このゲラ刷りはポパーのサークル内で回覧され、大きな影響を与える。しかし、六二年の時点での改訂されたゲラ
刷りをもとにして、弟子のバートリーによって編集され、三巻本として出版されるのは八二~三年である。「知識に関する三つの見方」
(『推測と反駁』第三章)。フルシチョフのスターリン批判。
1957年 すでに『エコノミカ』に発表されていた『ヒストリシズムの貧困』(久野・市井訳『歴史主義の貧困』中央公論社、一九六一年)が単行本として刊行される。
1958年 アリストテレス協会での会長講演「ソクラテス以前の哲学者たちへ帰れ」(『推測と反駁』第五章)。ラジオ講演「科学と形而上学の身分について」(『推測と反駁』第八章)。
チューリッヒでの講演「西側は何を信じているか」(『よりよき世界を求めて』第一五章)。
1959年 『探求の論理』の英訳が一月に『科学的発見の論理』(森・大内訳、恒星社厚生閣、一九七一年)として出版される。
「社会科学における予測と予言」(『推測と反駁』第一六章)。
1960年 ブリティッシュ・アカデミーでの講演「知識と無知の根源について」(『推測と反駁』序章)。
「真理・合理性・科学的知識の成長」(『推測と反駁』第一〇章)、これは八月に国際科学哲学会のために準備されたが、あまりにも長いので、そこでは一部しか発表されず、残りの部分は翌年にイギリス科学哲学会の会長講演として発表された。
ウィーンで入院し、目の手術を受ける。シュレーディンガーも同じ病院に入院しており、議論をする。合衆国大統領にケネディ当選。
1961年 オクスフォード大学でハーバート・スペンサー記念講演「進化と知識の木」(『客観的知識』第七章)をおこない、進化論的認識論の大要を示す。
バイエルン放送での講演「知による自己解放」(『よりよき世界を求めて』第一〇章)。秋、ドイツ社会学会(チュービンゲン)で「社会科学の論理」(『よりよき世界を求めて』第五章)を報告し、いわゆる「実証主義論争」を引き起こす。ベルリンの壁構築。
1962年 香港大学で講義。クーン『科学革命の構造』。
1963年 論文集『推測と反駁』(藤本・石垣・森訳、法政大学出版局、一九八〇年)。来日。エックルズ、ノーベル生理学賞受賞。
1965年 四月、コンプトン講演「雲と時計」。ロンドンにおける科学哲学の国際合同討議においてバートリーがポパーを批判。ナイト爵。精神科学賞(ドイツ)。
1966年 国際科学哲学アカデミー会員。文化大革命。
1967年 アムステルダムでの講演「認識主体なき認識論」(『客観的知識』第三章)。「合理性の原理」。ストックホルムにて第一回の「ラッセル法廷」開催。
1968年 「客観的精神の理論について」(『客観的知識』第四章)。第一四回国際哲学会(ウィーン)での講演「歴史的理解についての客観的理論」(『よりよき世界を求めて』第一二章)。
パリ、5月革命。
1969年 ロンドン大学を退官、渡米、ブランデイス大学で講義。西ドイツにブラント社民党政権誕生。
1972年 『客観的知識』(森博訳、木鐸社、一九七四年)。
1973年 ゾンニング賞受賞。
1974年 エックルズとともにロックフェラー財団の援助をうけて、九月イタリアのコモ湖畔に一カ月間滞在し、心脳相互作用説について真剣な討論を重ねるなかで二人の共著『自我と脳』の構想を練るとともに、討論をテープに録音した。その一部はこの書物の第三部として収録されている。
シルプ編の現存哲学者シリーズ中の一書として『カール・ポパーの哲学』(二巻本)が刊行される。アルプバッハ・ヨーロッパ・フォーラム三〇周年記念講演「科学と批判」(『よりよき世界を求めて』第四章)。
ハイエク、ノーベル経済学賞を受賞。ラカトシュ没。
1976年 『カール・ポパーの哲学』に収められていた自伝の部分が『果てしなき探求』(森博訳、岩波書店、一九七八年)として出版される。
イギリス王立協会会員となる。周恩来死去。毛沢東死去。
1977年 『自我と脳』(西脇与作・大村裕共訳、思索社、一九八六年)。文化大革命終結。
1978年 「わたくしは哲学をどのように見ているか」(『よりよき世界を求めて』第一三章)。
1979年 三〇年から三二年にかけて執筆された草稿『認識論の二大根本問題』(未來社近刊)がハンセンの手によって編集され出版される。
これにはポパーの序文「序文一九七八年」が付される。ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学より名誉博士号を授与された際の講演「知と無知について」(『よりよき世界を求めて』第二章)。
ザルツブルク音楽祭のオープニング講演「科学と芸術における創造的自己批判」(『よりよき世界を求めて』第一六章)。
ザルツブルク大学で名誉博士号を授与された際の講演「いわゆる知識の源泉について」(『よりよき世界を求めて』第三章)。
1981年 オーストリア国家条約二五周年記念講演「文化の衝突について」(『よりよき世界を求めて』第八章)。
チュービンゲン大学での講演「寛容と知的責任」(『よりよき世界を求めて』第一四章)。
1982年 名誉勲爵士の受爵。クロイツァーとの対談集『開かれた社会 ― 開かれた宇宙』(小河原訳、未來社、一九九二年)。
アルプバッハでの講演「知識と実在の形成」(『よりよき世界を求めて』第一章)。
『「探求の論理」へのあとがき』の第二巻『オープン・ユニヴァース』と第三巻『量子論と物理学における分裂』がバートリーの編集で出版される。
ウィーンでの書物週間開催の際の講演「書物と思想、ヨーロッパ最初の本」(『よりよき世界を求めて』第七章)。
1983年 『「探求の論理」へのあとがき』の第一巻『実在論と科学の目的』がバートリーの編集で出版される。
コンラート・ローレンツとのアルテンベルク炉端対話『未来は開かれている』(辻訳、思索社、一九八六年)。ミラーの編集による『ポケット版ポパー』。
1974年 『よりよき世界を求めて』(小河原・蔭山訳、未來社、一九九五年)。ミラーとの共同論文「帰納的サポートの不可能性の証明」。
1985年 ローレンツとの対話『未来は開かれている』(思索社、一九八六年)。夫人没。
1986年 科学理論のためのルートヴィヒ・ボルツマン研究所長に就任。ロンドンに居を移す。
1987年 ミラーとの共同論文「なぜ確率的サポートは帰納的ではないのか」。
1989年 LSEでの講演「知識の進化論に向けて」。カタルーニャ国際賞受賞。ベルリンの壁消滅。
1990年 講演録『傾向性の世界』(田島訳『確定性の世界』、信山社、一九九五年)。
1991年 ソ連邦崩壊。
1992年 一一月、京都賞受賞。
1993年 四月二一日、「ヨーロッパの人びとに呼びかける」(旧ユーゴスラビアでの戦争勃発に際して)。
1994年 『問題解決としての生』(未來社近刊)。一九九四年九月一七日(土曜日)の朝、一〇日ほど入院していたメイデイ大学病院において、友人たちに別れを告げた後、逝去した。
ガンが発見されたが、直接の死因は肺炎と腎不全の合併症であった。クロイドン火葬場でおこなわれた葬儀には親友や以前の学生など約四〇名が出席。式はポパー自身の遺言もあって静かでつつましいものであった。遺骨は、一九八五年に亡くなった妻ヘニーの墓に収められた。
ポパーはウィーン市の名誉市民であったので、墓はウィーン市の栄誉墓として永遠に維持される。
一二月一二日にはロンドン大学(LSE)主催の追悼式もおこなわれた。
小河原 誠著『ポパー 批判的合理主義』(「現代思想の冒険者たち」シリーズ第14巻、講談社、1997年)より転載。
なおこの略年表は、萩原能久氏の指摘により、若干の表現等の修正が加えられているので、原著に掲載されたものと同一ではない。

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ラジオ放送など

  • Der Philosoph Karl Popper und die "offene Gesellschaft"
  • Sir Paul Nurse, the President of the Royal Society,
    gave a short radio talk entitled' The Book that Changed Me:
    Conjectures and Refutations'
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